80歳を過ぎた父親が入院し、長期間病床に伏しています。
コロナの影響で面会もままならず。
その後、緊急事態宣言が解除され、父親に久しぶりに対面することができました。
病床に伏した父親は長期間の入院生活で自分では起き上がることもできず、すっかり変わり果てた姿になっていました。
私は息子として「親の死期」を覚悟しなければならない時期に来ていると感じています。
人生を終えようとする人間は何を思うのか。
これは、何十年か先に自分にも訪れる未来のことでもあります。
今回は、「人生で最も後悔していること」を分析したことを書きます。
現在40代の自分が生で感じ取り、学べることがあるはずと考えたからです。
追記:後日父は他界しました。事前の覚悟・心構えそして葬儀で感じたことなどをストーリー風に綴っています。
人生で後悔する20の項目
いろいろ調べていく中で見つけたのは、米国で80歳以上の老人を対象としてアンケートを取ったデータ。
(出典元を探してみましたが見当たらず)
20の項目とは具体的に以下のことを指します。
- 他人がどう思うか気にしなければよかった
- 幸せをもっとかみ締めて生きるべきだった
- もっと他人のために尽くせばよかった
- くよくよと悩まなければよかった
- 家族ともっと時間を過ごせばよかった
- もっと人に優しい言葉をかけていればよかった
- あんなに不安を抱えながら生きるべきではなかった
- もっと時間があれば・・・
- もっと思い切って冒険(チャレンジ)すればよかった
- 自分を大切にすればよかった
- 他人の言う事よりも自分の直感を信じればよかった
- もっと旅をすればよかった
- もっとたくさん恋愛をすればよかった
- もっと一瞬一秒を大事に過ごせばよかった
- 子どもたちに好きな事をさせてやればよかった
- 言い争いなどしなければよかった
- もっと自分の情熱に従うべきだった
- もっと自分のために頑張ればよかった
- もっと自分の本音を言うべきだった
- もっと目標を達成すればよかった
このアンケートを取り上げているブログなどの記事は他にもあります。
それらの記事で伝えていることは、「チャレンジしなかったこと」が7割の人が挙げている回答だということと、20項目それぞれについての解説です。
ただ、私はそこから一歩踏み込んだ分析が必要かなと感じました。
つまり、「で、結局どういうこと?」「じゃあ、自分はどうすりゃいいのさ?」っていう部分です。
人生の最期に「やりきった!」と思えるようにしたいですからね。
20項目の後悔を3つのカテゴリーにしてみる
20項目の後悔をカテゴリー分けすると大きく
- してしまったこと
- しなかったこと
- 思考に支配されたこと
と3つになります。
だいぶシンプルになりました。
ここで疑問に思うのが、「思考に支配されたことって何?」ということでしょう。
これは以下で解説しています。
さてこのうち、後悔の念が最も強いのはどれか。
それは、「あのとき◯◯すればよかった・・・」などというしなかったことに対する後悔です。
次に、カテゴリー分けしたものを更に見ていきます。
してしまったことへの後悔
20項目の中で「してしまったことへの後悔」は以下の3項目です。
- くよくよ悩まなければよかった
- 不安を抱えながら生きるべきではなかった
- 言い争いなどしなければよかった
このうち上の2つの後悔は「考え過ぎ」に起因するものです。
人間なので悩みがあることは仕方のないことです。
ただ、どんなに考えても答えの出ないことに時間をかけ過ぎてしまうことってないでしょうか。
例えば、
- 現在の会社に残るか転職するか
- 転職するか起業すべきか
- 複業が会社にバレたらどうしよう
という悩みはなかなか結論に至らず、堂々巡りを繰り返してしまうことになります。
私もそうでした。
ずーーーっと時間をかけて悩んでいるけど、1つも状況が変わっていないんですね。
どんなに悩んでも、予めベストな答えなん出ません。
やってみて結果が出て初めて、その選択が正しかったのか間違えていたのかがわかります。
だから私は、考えて答えのでないようなものは悩まず、自分の直感に従って行動することを心がけています。
一方、「言い争いなどしなければよかった」というのは、人間関係が拗れてしまったことの後悔ですね。
私にもあります。
- あのとき感情に任せてあんなことを言わなければよかった、とか
- あんなに仲がよかったのにあの日以来断絶してしまった、とか
ですね。同性同士、男女間ともあります。
このタイプの後悔を避けるにはどうしたらいいか。
これは「避けることができない後悔」ということを前提で生きていくしかないんじゃないでしょうか。
だって、人と考え方や意見が異なるのは当然あり得ることですし。
人とうまくやって「言い争い」などしなければいい、という優等生なことをいう人もいるかもしれませんが。
でもこれは次で説明する「本音ベースで生きられなかった後悔」へと繋がります。
しなかったことの後悔
しなかったことの後悔は、「自分のこと」と、「人に対してのこと」の2つに分類できます。
自分がしなかったことの後悔
自分のことは更に、
- 本音ベースで生きられなかったこと
- 行動できなかったこと
分けられます。
本音ベースで生きられなかった(他人の人生を生きてしまった)
以下は、本音ベースで生きることができなかった後悔です。
- 他人がどう思うか人のことを気にしなければよかった
- もっと自分の情熱に従えばよかった
- 自分を大切にすればよかった
- もっと自分の本音を言えばよかった
- 他人の言うことよりも、自分の直感を信じればよかった
他人に忖度し自分が一歩引くことは「大人の振る舞い」ではあります。
先ほど挙げた「言い争い」したことの後悔はしないかもしれません。
特のサラリーマンの職場では。
他人の尺度に従ったり、他人の指示に従うことをすればその場は波風が立ちません。
ただ、その事によって自分の素直な感情に背くことよる別の後悔の念が生じるんですね。
で、どっちが後悔するのかというと、圧倒的に自分自身の本音ベースで生きられなかった方が後悔の強いんだなと感じました。
子どものころから、先生の言うことをよく聞き、職場では上司の言うことをよく聞くタイプは、気疲れ・気苦労が蓄積されていくのかもしれませんね。
結局、自分が行動できなかった後悔
しなかったことのうち、自分が行動しなかった(できなかった)後悔は特に強いです。
- 思い切ってチャレンジすればよかった。
- もっと自分自身のために頑張ればよかった
- もっと一瞬一瞬を大事に生きればよかった
- 自分の決めた目標をもっと達成すればよかった
- 家族ともっと時間を過ごせばよかった
- もっと旅をすればよかった
- もっとたくさん恋愛をすればよかった
「◯◯すればよかった(けどしなかった)」という後悔ですね。
じゃあなぜ「しなかった」のか。
まず、人に忖度し過ぎて本音ベースで生きられなかったから、っていうのがあります。
本当はチャレンジしたかったけど・・・
- 親・上司・友達など周りの人間に反対された
- 就業規則で禁止されているから
みたいなやつです。
もし当事者が理由を挙げたら、「他責」の話ばかり出てくるでしょう。
でも、結局全て「自責」ですよね。
「やらない」と最終的に決めたのは、自分なんですから。
そして、やらないことで「現状から変わらない」という一種の安定感は手に入れられたのですから。
人に対してやらなかったことの後悔
やらなかったことの後悔で、人に対してのことは以下の3項目です。
- もっと他人に尽くせばよかった
- もっと人に優しくすればよかった
- 子どもたちに自分のやりたい事をさせてやればよかった
よくこんなことを言われることはあります。
- 自分のことだけを考えていたら心はすさんでいく
- 利他的であればその行いが自分に返ってくる
確かに一理あります。
ただ、私は「無条件に利他的であれ」なんて思いません。
利他的である以前に、まず自分が満たされている必要があるからです。
例えば、コロナの影響で失業している人に「利他的であれ」なんて口が裂けてもいいません。
「まず自らを助けよ」って言うはずです。
思考に支配された結果の後悔
20項目の中で「やったことの後悔」にも「やらなかったことの後悔」にも当てはまらないのが以下の2つです。
- 幸せをもっと噛みしめたかった
- もっと時間があれば。。。
「幸せをもっと噛み締めたかった」というのは、思考の問題です。
これは、(本当は幸せなのに)自分は幸せではないと思い込んでいるものです。
「しあわせは いつも自分のこころがきめる」(相田みつを)っていうのはまさしくそのとおりです。
何を持って「幸せ」と自分で定義するかにかかっています。
- 生まれてきただけで幸せ
- 着るものがあって幸せ
- 朝ごはんが食べられる幸せ
- 家族がいるだけで幸せ
・・・・
日常で当たり前にあることを幸せに思えるかどうかにかかっています。
だから、「幸せをもっと噛み締めたかった」と思うのは、思考を支配されてしまった結果なんですね。
幸せを噛み締められなかった後悔よりも、思考を支配されてしまったことの後悔です。
もう一方の「もっと時間があれば・・・」というのは、後悔でもなんでもなく「ないものねだり」でしかありません。
時間だけは1日24時間、誰しも平等ですからね。
「時間があれば・・・」と言ってる人に、仮に時間を与えられたとしても結局やらないのが常です。
これも「時間さえあればできたのに・・・」という思考に支配された状態です。
ここまでのまとめ
アンケートの結果20項目をカテゴリー分けして整理した上で改めて表示してみると以下のようになります。
こうしてみてみると、してしまったこと後悔よりもしなかったことの後悔の方が多いことに気づきます。
また、後悔することの中には、「(やってみた結果)失敗してしまったことの後悔」というのはないことにも気づきます。
後悔しない人生の最後を迎えるには
人生を振り返って後悔の念が強くなってしまうのは、本音ベースで生きられず、行動できないからです。
じゃあ、なぜ本音ベースで生きられないのか。
それは、他人への依存度が高いからです。
特にサラリーマンは務める会社への依存度が高いですよね。
収入源が1つの会社の給料だけであれば、依存度100%です。
だからどんな職場でどんなに理不尽な目に遭っても耐えなければなりません。
私は自分が子どもの頃、気付く由もありませんでしたが、現在であればわかることがあります。
それは、父親が会社をやめたいと思っていたことです。
でも、結果的に定年まで勤め上げました。
会社から理不尽な扱われ方をしても、不本意に地方へ転勤となっても、歯を食いしばって会社に行っていたのは、私を育てていくためであり、家族を守るためです。
こんな状況にある父親は、本音ベースで生きてこられたはずはありません。
会社を飛び出して起業にチャレンジしたいと考えたとしても、長期の住宅ローンを組んだ時点でハードルが一気に高まります。
だから結局「やらない」「現状から動かない」という一択しかなくなってしまうのです。
私はもちろん父には感謝しています。
ただ、会社への依存度があまりにも高い生き方、自分の人生を会社に委ねてしまう生き方とは違う生き方をしようと私は思っています。
インターネットが発達した現在、会社員のままでいるか、一か八かで起業するかの二者択一ではなくなりました。
であれば、ネットを使って会社員のうちから自力で稼ぐ訓練を身につけ、依存度を下げておくことが、本音ベースで生き、やらない後悔を回避する唯一の方法だと私は思います。
お金さえあれば、後悔しない人生を絶対に送れる、とはいいません。
ただ、自力で稼ぐ力がつけられれば他人への依存度を下げることができます。
それは、本音ベースで生きることに繋がり、他人に忖度して「やらない」という結論に至ることを回避できるのではないかと私は思います。
なぜ他人への依存度が高いのかのほとんどのケースは、経済的に依存しているから。
会社とかに依存度が高ければ、結局自分の信念を曲げてでもそれに従わなくては行かなくなります。
それならまずは経済的な自由を手に入れること、というのが私の考えです。
行動できないのはなぜか。
リスクを取れないからです。
リスクって何かというと、変動することです。
例えば、100万円の元手が必要となる投資案件があるとします。
うまく行けば、これが200万円にも500万円にもなります。
でも多くの人はやらない。
失敗して失うのが怖いから。
年収400万円の人にとって100万円の元手は、25%もあります。
これが年収1億の人にとっては、1%です。
1%というと、どれくらいの感覚なのかというと、
400万円の人が4万円をかけるような感覚です。
この人にとって、4万円は少なくない額ですが、うまく行けば十分アップサイドを狙えるのではなでしょうか。
仮に失ったとしても生活が立ち行かなく金額でもありません。
なお、後日父は他界しました。事前の覚悟・心構え、そして葬儀で感じたことなどをストーリー風に語っているのでこちらも併せてお読みください。
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